入職3日目の朝、まだ照明の半分も点いていない病院の受付で、私はひとり立っていました。
総合病院の医療事務として採用された3日目。同期はいませんでした。前任が辞めてからの空白を、ひと月半ぶりに埋めるかたちでの入職でした。研修期間と呼べるものは2日。3日目には電話を取り、患者さんの保険証を確認し、新患の登録をして、会計を打つ。表向きは、できることになっていました。
その日は、月末月初でした。
7時45分、開錠と同時に外来の待合に4人並んでいました。「あら、新しい子?」と笑った最初のおばあちゃんの保険証を、私は、ひっくり返したまま端末に向かって入力しようとしました。番号を、半分まで打ち間違えました。先輩はまだ着席していません。隣の整形外科の受付の女性が、視界の端を一度通り過ぎていきました。
8時を回って、電話が鳴りました。鳴り続けました。3本同時に。
1本目を取って、保留にしました。2本目を取って、保留にしました。3本目を取った瞬間、1本目の保留が切れていることに気づきました。受話器を持ったまま頭が真っ白になり、目の前のおばあちゃんに「あの、すみません、ちょっと」と声をかけたところで、ようやく先輩が後ろから現れました。
「もういい」
先輩はそれだけ言って、私の手から受話器を取り、おばあちゃんの保険証も自分のところに引き寄せ、3本の電話を順に処理しました。流れるような早さで、すべてが終わりました。私は、何をしていいか分かりませんでした。横で突っ立っていたのか、後ろに下がっていたのか、その2分の記憶がありません。
その日の夕方、休憩室でひとり、電気ケトルの音だけが響いていました。
10年経って、いま、私は別の病院でフルリモートで医療事務をしています。新人のころに「もういい」と言った先輩は、たぶん私のことを覚えていません。私が悪い新人だったわけではなく、私が珍しいわけでもなく、その日その時間に、彼女には彼女の朝があったのだろうと、いまなら分かります。
それでも、あの夕方の電気ケトルの音は、忘れたことがありません。
あの日の私に教えたいことが、いくつかあります。
電話を3本同時に取らなくていい。1本目の保留を切らさないことだけ覚えればいい。保留にする前に「○○科の○○です、少々お待ちください」と言うだけで、相手の3秒の不安が消える。保険証を反対に置いたまま入力しても、誰も死なない。新患の番号を半分間違えても、もう一度打ち直せばいい。
そして何より、「もういい」と言われた夕方は、その人の朝が悪かっただけで、私の3日目が終わったわけではない。
このブログは、10年前の自分のために書いています。同じ夕方を、いま誰かが過ごしているかもしれないので、できるだけ早く、できるだけ静かに、ここに置いておきます。
明日の朝が来るのが怖いという夜には、何かを学ばなくていいです。今夜は、これだけ読んでください。
— Yu